リオより、ゲキレンジャーより、
よっぽどバエに対してツンデレじゃん、
と思った27話。
ひょんなことから、「超獣戦隊ライブマン」を見ている。

「ああ、懐かしいなぁ」と思ってしまったそこのあなた。
お互い年を取りましたな。
何しろ昭和最後の年を戦った戦隊である。

今やっと30話を越して、「ライブマン」と言ったら必ず引き合いに出される、
「新戦士がふたり加わって、3人から5人になった」
あたり。

平成の今でこそ新戦士追加は珍しくもないが、当時としては戦隊シリーズ史上の「事件」だったのである。
いや、その後の戦隊でも一度にふたりの新戦士追加が行われたケースはない。
唯一、「忍風戦隊ハリケンジャー」で、3人の戦隊に「ゴウライジャー」という別の2人の戦隊が協力して戦ったことがあるのがこれに似るだけだ。

さて、後から参加のブラックバイソンと、グリーンサイの両名。

「本来の戦隊メンバーとは別の動機で敵に戦いを挑む」
「そのため登場当初は、本来のメンバーとそりが合わない」
「戦隊メンバーに加わってからも、何かと対立してしまう」

と、その後の追加戦士の雛形を演じてはいる。
「うざったてー」の元祖にどうお詫びしたら良いか判らないタイトルだこと。

え〜、何の話だったっけ。

そうそう、アイシーね、デンジマンの。

といっても、1ヶ月も前の話題の続きを待ってる人も、
おるまいから、丸投げ。

アイシーの最期については各自DVDなり、
その他ここには書けない様な手段なりで、
確認のこと。

今我々がスーパー戦隊シリーズの殉職戦士のことを語ろうとすると、
あるいは二代目キレンジャーと言い、
あるいはバトルコサックと言い、
ブラックコンドルと言い、アバレキラーと言ってしまうのですが、

ヒーローたちを助けるべく、
影で命を投げ出したチャウチャウ犬もいたのですよ。
間が空きましたが、ええと、何だったっけ。
そうそう、アイシー。
「電子戦隊デンジマン」をサポートする電子犬だ。

最終決戦で彼はその身を投げ出すんだが、これが、実に静かにさりげなくなんだなぁ。
デンジマンをかばって敵の凶刃に斃れるとか、そういう死に方じゃぁない。

決戦を前に大きな損傷を追ってしまった巨大ロボ、ダイデンジン。
アイシーはその修理に必要なスペアパーツのないことを理由に、デンジマンたちに出動を許さない。

「待つんだ、待つことも戦術だ」
なんてぬかす、一見チャウチャウにしか見えないロボット犬。
(前にサイボーグと書いたのは誤りでした、と訂正してお詫びします)

戦隊のサポートキャラというより、しっかり「長官」「参謀」してました。

しかし、街で暴虐の限りをつくす悪党たちに、デンジマンたちの我慢も限界。
アイシーがロックしてしまった基地のドアに武器を向け、

「もうこれを破壊してでも、俺たちは出動するぞ!」
「どうしても行くのか、諸君」
「ああ!」

アイシーはそんな彼らを無言で送りだすのだった。
第1話を見て率直な感想。

このレッドの子、「テニプリ」ミュージカルで大石役だったってマジで?

金太郎役じゃなくて?
「メビウス」41話を観ゆ。
ウルトラマン80客演の回。
「仰げば尊し」のシーンと、人間体になってかつての教え子たちの中に入っていくとこは、ウルトラマンとしてじゃなく、良かったな。

橋川もいわば80世代だが、「俺たちのウルトラマン」みたいな思い入れは実はない。
姉妹とのチャンネル争いで負けたり勝てなかったりで、とびとびにしか観てなかったせいもある。

ウルトラマンが学校の先生という設定は、子供心にかなり新鮮だった。
「今(1980年に)ウルトラマンをやる意味は?」への答えとして、当時ブームだった学園もののテイストを取り込んだということと、防衛チームの隊員の立場からだけでは描けないドラマづくりを狙って、ということらしい。
これは序盤のいくつかのエピソードに傑作を生む。

しかし、やはり学園ものと怪獣ものの両立は30分ではきつくなったか、やがてウルトラマン80こと矢的猛の教師としての側面は、うやむやにされていく。
今回のメビウス41話はそのあたりに決着をつける話となった。

あれだ。
少年犯罪の凶悪化やら性の暴走やら教育の興廃やら言われている昨今、もう一度真面目に試みられて良いコンセプトじゃないだろうか、「ウルトラマン先生」。
何やかやと、差別や贖罪について思いをいたしていたら、今日は「世界人権デー」。

あなたは、美しいパン屋ですか?
「怪獣使いの遺産」に戻って、前作の「差別」から今度は「謝罪」がテーマ。

「賠償請求に来るにしたって、何で30年も経ってから?」とか、「知ってたなら助けに来てやれば良かったじゃん」とかいう突っ込みも可能なわけだけど、そこは好意的に。
きっとメイツ星人にしても宇宙飛行はまだまだ発展途上の技術なんだよ。
そうそうすぐには飛び立てないし、一度にそう何人も飛ばすこともできないのだろう。
そう考えてみると、ウルトラシリーズ最大の謎のひとつとされる、「宇宙人はなんで一人や二人で地球を侵略に来るんだ?」という疑問にも答えが出る様な気がする。

30年前も、同胞の地球での窮地をわかっていて、救援を送ることも出来ず、いわば見殺しにするしかなかった。
それだけに、「おのれ地球人」の思いもまた強く持ったのではないか。
仲間を救えなかった自責の念も、いつしか憎しみに転化したかもしれない。
ようやく地球人に代表特使を送りこむまで、30年。
その時間がさらに憎しみを増幅させたに違いない。

そう、時間が育ててくれるのは愛や優しさだけじゃない。

「遺産」が定型のハッピーエンドの様で、実はそうではないのは、地球人も謝罪を口にせず、メイツ星人ビオも赦すとは言わない、いわば「後の世代に責任を丸投げ」する結末だからだ。
謝罪だの賠償だのの交渉は、早ければ早いにこしたことはなく、
そうしなかったせいで、こじれにこじれてしまっている国際関係は、例をあげるまでもない。

「握手は父の遺産が花を咲かせるのを見届けてから」というビオの言葉。
うがってみれば、「地球人がもっと従順になった頃また賠償請求に来る」と言ってる様でもある。

一定の希望はしめしつつ、けして完全な救いは与えない。
さすがウルトラ屈指の問題作の続編というべきか。

パン屋の娘はパンを売るから美しい。
良少年が求めたのは、パン屋でパンを買う当たり前の権利だった。
ところで、あたりまえの権利にはあたりまえの責任、義務が当然付随する。
不当にパンを売ってもらえなかったからと、パン屋に放火しても良い理由にはならない。
郷秀樹が間違えてしまったのは、今回メビウスが間違えそうになったのは、実はそんなあたりまえのこと。

個人対個人でもうっかり陥りがちなミスで、それが国家対国家ともなって、「過去の遺恨」が外交カード化してしまうと、もう何がなんだか。
しかもその切り札を振りかざす側も、恐れおののく側も、実は実際何が起こったか、リアルタイムで知らない世代だったりするともう。

未来に希望を託すのはたやすい。
しかし、「時間は夢を裏切らない」とは、誰が保障してくれるのか。
「怪獣使いと少年」が悲劇的なのは、ウルトラマンでさえ人間のむき出しの憎しみの前に無力であることを描いているからだろう。

郷秀樹の失敗は、メイツ星人と良少年に同情してしまったこと。
彼がMAT隊員としてまずやるべきは、現に彼らのために疑心暗鬼にとらわれている地域住民への、正確な情報公開であったはず。
メイツ星人に悪意のないこと、ただ宇宙に帰りたがっているだけであること、彼の身にもしものことがあると出なくていい怪獣が出かねないことなどなど。
けして、良少年といっしょになって川原を掘ることではなくて。

「少年」唯一の救いはウルトラマンでなく、名もないパン屋の娘である。
街にパンを買いにでかけた良少年。
ものの役にたってないおんぼろ傘が物悲しく、そんな彼の姿を無知と恐れから遠巻きにするばかりの人々の姿がうすらさむい。
地球をどうこうできるような力を持った宇宙人が、雨に濡れながら歩いてパンを買いに来るか? という、あたりまえの理性ももはや彼らには働かない。
パン屋のおかみさんも、彼にパンを売ろうとしない。
この時のおかみさんの、「自分が嫌だから売らない」ではなくて、「後で色々言われるの嫌だから」という断り方も実に日本人的。

その様子を見ていた娘は帰りかけた良を追いかけ、食パンを差し出す。
「同情なんかいらないよ!」という良に、

「同情なんかじゃないわ、売ってあげるだけよ、だってうちパン屋だもん」

としっかり120円受け取る娘。
「少年」で唯一ほっとできるシーンだ。
伊吹隊長の言う、「美しい花を造る日本人の手」の部分。

「パン屋の娘が美しいのは、パンを売るからだ」
とは本編の評論でよく出るフレーズ。
パン屋なのだから、相手が誰だろうとパンを求めてきたらパンを売る。
けして同情や哀れみで施しをするのではなく。
このあたりまえのことが、時になんと難しいか。
パン屋にいってパンを買う、という当たり前の権利が、時になんと残酷に蹂躙されることか。

メイツ星人と良少年に同情してしまった郷秀樹は、彼らに肩入れするのあまり、現実に臨界点に達しつつあった住民の不安の解消措置を怠った。
そして悲劇は起こった。

暴徒と化した住民によって、いや正確には、彼らの軽挙妄動をいさめる立場のはずの警察官の放った銃弾で、メイツ星人は命をたたれる。
もともとの原稿では住民の竹槍に突き殺されるところを、それじゃいくらなんでも生々しすぎると、「警察官の発砲」に変更されたのだそうだけど、かえって悲劇性を増すことになった。

そして巨大魚怪獣ムルチ登場。
自分たちがしでかしたことの結果におそれおののき、郷にすがる住民たち。

「何を勝手なことを。怪獣を招き寄せたのはあんたたちだ」
と苦々しい表情で事態をみつめるばかりの郷。
平成の今でこそ、人間性あふれるヒーロー像があれこれ構築され、珍しくもなくなったが、
「ヒーローが人間を守ることを放棄してしまう」
というのは1970年代当時としてはかなりショッキングなシーンではなかったか。
光の国から僕らのためにやって来た正義の人であったウルトラマンが、憎しみに我を忘れてしまう。

そんな郷に近づく謎の雲水僧。
「街が大変なことになっているのだぞ、わかっているのか」
とさとす、なぜか伊吹隊長そっくりな謎の雲水僧。
このあたり、伊吹隊長が郷=ウルトラマンであることを知っているともとれてしまうため、いろんな解釈があるようで、「ウルトラマンが郷に見せた幻」説なんてのもあるらしい。

パン屋は、パンを売るのが仕事。
偏見も同情も哀れみも蔑みもなく、求められればパンを売るのが仕事。

MATの使命は街が大変なことになったら、これを守ること。
同情や哀れみをまじえず、今まさに命の危機にある命を救うのが使命。

そんなあたりまえのことが、時にM78星雲から来た超人であるウルトラマンにすら、難しいのである。
メビウス話続く。

最初に見た時は上質の悲劇だったものを、月並みな美談に摩り替えてしまってないかい? とは思いつつ、素直に感動した。

しかし、ラスト3分の園長先生のモノローグがどこか引っかかって、「待てよ」となった。
結局、川原で穴を掘っていた青年は地球を去ることは出来なかったのだろう、とそこで判る。
彼は地球で亡くなったのだ。
きっと「美しい花を造る手を持ちながら、ひとたびその手に刃を握れば」いくらでも残忍になれる、日本人の偏見にさらされながら。

結局何も救われてないんじゃね?

30年前の当事者が謝罪したという話ではない。
未来志向といえば聞こえは良いが、結局は負の遺産を後の世代に押し付けることでもある。
謝るべき時に、謝るべき人が謝らなかったせいで、こじれにこじれてしまっている民族関係は、ここで例をあげるまでもない。
「日本人」とメイツ星人が握手する姿は結局描かれなかった。

そこのところに気付いて見直してみる。

30年前の悲劇を知っても、
「いきなり宇宙人が現れたら驚くよね」
「あれは無知と恐れの引き起こした悲劇だった」
と、けして「謝罪」の姿勢にはならないガイズ隊員たち。

「あの時は仕方がなかった」
「そういう時代だったとしかいいようがない」
と、祖先の過去の過ちから目を背けがちな、「日本人」の姿そのものだ。

「少年」では、メイツ星人を殺してしまった「日本人」たちが、怪獣が現れるや、あわてて郷秀樹にすがる。
「何を勝手なことを」
と一端はウルトラマンとしても、MAT隊員としても、その使命を忘れかけた郷だったが、
「街が大変なことになっているぞ」
と隊長からさとされて変身、やり場のない怒りを怪獣ムルチにぶつける。

「遺産」では、リュウがミライに
「街が大変なことになってるじゃねぇか」
と変身を強要する。
ミライとビオが握手しかけたのを、「無知と恐れ」から狙撃してしまったのはリュウだ。
郷隊員なら「何を勝手なことを!」と怒るところだ。
「メビウス」32話「怪獣使いの遺産」を観る。
「帰ってきたウルトラマン」で傑作の誉れ高い、「怪獣使いと少年」の続編である。

「少年」は簡単に言えば人種差別がテーマ。
何の悪意もない宇宙人と、彼と親しくなった少年が、いわれのない迫害を受け、やがて暴徒と化した住民によって悲劇が引き起こされる。

「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、ひとたびその手に刃を持てば、どれほど残忍になるか」

というそのものズバリのセリフがある通り、自分たちと違うものに時として不寛容になってしまう、日本人の抜きがたい排他性を鋭くえぐっている。

宇宙人の「おじちゃん」が残した宇宙船を見つけようと、川原で穴を掘り続ける少年の姿で、「少年」は閉じる。

そして時は流れて「遺産」。

30年前「地球人」に父親を殺されたというメイツ星人ビオが、謝罪と賠償を求めて飛来する。
メビウスが間に立って、とにかく話し合いのテーブルにつくことでおさまりかけるが、そこからもう一波乱。
怪獣出現。
街が大変なことになる。

結局は、「川原で穴を掘っていたお兄さん」から宇宙人と理解しあおうとする努力を教えられた、その意志を今も園児たちに教え続けている、という園長先生の言葉に、ビオはもう一度地球人を信じてみることにする。

完全ではないまでも、「未来に希望を託す」という形でのハッピーエンドかと思った。
しかし、
実相寺昭雄監督を痛んでかどうか、YouTUBEに「セブン」の例のあの12話がアップされているのを発見、10何年かぶり鑑賞。

十数年前に見た、孫コピーのダビングテープ版とは比べ物にならないけど、やはり画像粗いねぇ。

巷間言われる問題点抜きにしてみると、アンヌ隊員の私服ショットの多い、いわばファンサーヴィス編だったんだなぁ、と思いいたる。
戦隊史上最年少レッドを演じた橋本淳きゅん。
配役決まった時には、マネジャーさんも、
「レッドですか?」
と驚いたというキャスティング。

撮影の最初の頃は、
「末弟の自分がどうやってこの戦隊を引っ張っていくか」
ばかり考えてプレッシャーだったと告白してて、かわゆい。

「この戦隊には頼りになるアニキや姉ちゃんたちがいる」

「俺はこの戦隊のリーダーでなくって良い!」

という結論に至るまで半年かかったとか。

橋川的にも小津魁ちんというキャラクタに萌えが入るのはその頃、橋本きゅんの「流され攻め」「引っ張られレッド」開眼の頃からでしょうかね。

いわゆる切り込み隊長型の多かった、平成レッドの中でも、また違った魅力を見せてくれたんじゃないかな、とね。
その「マジレンジャー」終盤に「天空大聖者マジエル」役で出演の曽我町子女王様。

橋川には「サンバルカン」「デンジマン」でのヘドリアン女王の印象が今も強いですね。
いわゆる「vsシリーズ」も12作を数えて恒例化していますが、東映の公式設定上世界観を共有しているのは、やっぱり上記2作品のみ、とのこと。
(石ノ森章太郎原作の「ゴレンジャー」と「ジャッカー」も、石ノ森ワールドという世界観を共有してることにはなるみたいですが)

マジレンジャーメンバーの中にも、リアルタイムで「ジュウレンジャー」を観ていて「ジュウレンジャーに限っては主人公たちより、パンドーラ様の方が好きだった」と言ってる人がいたらしく、やはりシリーズの歴史を感じます。

スーパー戦隊シリーズ4作目、そして初めて主人公サイドでの出演となった「マジ」が、テレビ作品としての遺作になったとのこと。
遅くなりましたがご冥福をお祈りいたします。
そして、やはりこれだけは言いたい。

「死ぬ間際に良い奴になるんじゃねえ!」
世間では「ボウケンジャー」がもう佳境だろうという頃に、「マジレンジャー」をようやく観終える。

自分でも意外なことに、最年少レッドでもツンデレイエローでも、ダブルヒロインやいわゆる「6番目の戦士」であるマジシャインですらなく。

グリーンのアニキに燃え。

なんだなぁ、橋川もこう、戦隊の中の年長メンバーに味を感じるようになったということかのぉ。
「アバレ」では三条先生だったしな。

で、マジグリーン。
けしてメンバー中最強ということもなく、冷静なリーダーキャラでもなく、ひたすらアニキとして弟妹たちを引っ張り、信頼されているところが良いですか。
自身けして完成された戦士ではなく、未熟な面も多々あって失敗もくりかえすんだけど、最後はきっと弟妹たちのために最善の決断をしてるとことか。

カビに犯されて自分では戦えない身体で、弟妹たちを必死に応援するエピソードなんか良かったなぁ。
父親の回想ともからめて、実にアニキらしさを発揮していて。

マジレッド役橋本きゅんのブログで、
「カビにおかされた身体のまま見学の子供に握手しにいこうとして、泣かれてしまって落ち込んでいた」
なんて逸話を聞いてしまうと、なお好感。
歌詞も、設定上の番号の一切無視して
「真打登場」にこだわる青がやっぱり最高。

http://www.youtube.com/watch?v=5-BnhegV0sE
こういう時はこういうものか…… とぐったりしてしまう。
この数日何かにつけてツいてないよぉ。

再放送「新撰組」
マンガ家の渡辺多恵子さんの批判意見を読んだりしたのだけど、橋川はこれはこれで。

「当時の価値観として、近藤やミツがこういう物の感じ方をするのはおかしい」

みたいなことを、渡辺先生はおっしゃる訳だけど、これは時代劇であると同時に青春ものであろうと思うので、多少現代人にわかるように脚色が加えられても良いと思う。
これは現代におきかえれば、こういうことなんだな、くらいにとらえておけば良いのじゃないかと。

まぁ、

「○○しちゃって……」

みたいな、時代劇では聞きなれない言葉遣いが不意に出てくると、ちと戸惑うのは確かなんだけど。
「新撰組」は相変わらず再放送で。

山口さんちのはじめちゃんに、山南さんに、芹沢に、と続々と登場人物が増えていく。
この中では山南のイメージがちと違うかなぁ。
こういう心底の見えない人じゃないんだけどなぁ、橋川の中では。
その山南を道場破りと勘違いした至衛館’sの悪巧みと、その不発っぷりは愉快。
土方は早くも山南にコンプレックスむきだし出しだし。

そんなこんなの青春時代もまもなく終わるのだなぁ、としみじみ。

桜田門外の変勃発。

日本では政変が起こる時、雪が降るのさ。
仕事の出勤シフトが、前にも書いたと思ったけど、事情でずれまくっている。
おかげで曜日の感覚が狂うことしばし。
「エースをねらえ!」を観ようと思ったら、一日早かった。

チ! となったものの、思いがけず、話題はあれこれ耳にしながら、実は今まで一度も観たことのなかった、「トリビアの泉」を観ることが出来た。
知ってることと知らないことと半々という内容だったけど、なるほど、面白い。

ミチバチがスズメバチを蒸し殺す再現VTRで、「ガンダム」が流れたのに、笑った。
スズメバチが死にいたる気温が40度前後、ミツバチは50度前後まで耐えられる、その耐熱性能(じゃないけど)の差をつかった戦闘法ということだそうで、ガンダムがザクとともに地球に落ちて一機だけ大気圏を突破する場面を思い出してしまった。
というわけで新装相成ったdiary noteなのですね。
いくつかまだ使えない機能とかあるみたいだけど、全部使えるようになったら、確かに面白そうだ。

とりあえず、タグの使えるようになったのが、大きいかと。

「新撰組」
事情でやく一週遅れの再放送の方を見ている。
近藤と土方の決意が切ない。

「侍より侍らしくなってやる!」

まぁ、もちろんそれはその後の歴史を知っているから切ないと感じるので、彼らはきっとすごい前向きなのだが。

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