「悪党ども! 死ぬ前に祈りをすませろ!!」
2003年6月3日うわぁん!
もうお金なんか、見るのもいやだ!
「ま、夜勤明けのコンビニ店員には、それくらいほざく資格があるよな」
訃報である。
中日、大映、松竹などでプレイした強打者、小鶴 誠さんが亡くなった。
80歳。
この日記でも前に触れたことがあったが、日本プロ野球史上最初のシーズン50本塁打到達者である。
メジャーリーグ・ベースボールにおけるホームラン革命の始祖は、もちろんベーブ・ルースだが、日本プロ野球(職業野球と言おうか)でのそれは、天才・大下 弘の登場に始まる。
本塁打王が10本前後で争われていた時代に、いきなり2倍以上の27ホーマーの記録を打ち立てた彼の出現に、多くの伝説の猛者たちが長打力をみがきあった。
「打撃の神様」川上哲治。
「じゃじゃ馬」青田 昇。
「物干し竿」藤村富美男。
そのクライマックスが、小鶴 誠のシーズン51号ホーマーである。
当時のボールは今よりよく飛ぶもの(通称「ラビットボール」)だった。
狭い地方球場での公式戦も多かった。
などの理由で、のちの時代の野村や王の記録より一段下に見るむきもあるが、同じ昭和25年、チーム本塁打でも彼ひとりに及ばなかった球団もある事実はゆるぎもない。
「リーグの総本塁打数に対する比率」という見方をした時、上記の二人や、落合、バース、ローズ、カブレラらをもおさえてトップに出るのが、この小鶴の51本であるらしい。
この51という数字は、知っての通りというか、上に名前の出た人たちに追い抜かれていくのだが、もうひとつ、同じ年に達成した161打点という日本記録は今も燦然と輝く。
野村が160試合制のもとで追ったがついに届かず、その後は影を踏むものさえない。
「神代の記録」とも呼ばれる。
ただひとり、「ドカベン」山田太郎が昨年これを抜いたものの、これはマンガの話。
不滅の記録を不滅のままに、伝説のスラッガーは逝った。
もうお金なんか、見るのもいやだ!
「ま、夜勤明けのコンビニ店員には、それくらいほざく資格があるよな」
訃報である。
中日、大映、松竹などでプレイした強打者、小鶴 誠さんが亡くなった。
80歳。
この日記でも前に触れたことがあったが、日本プロ野球史上最初のシーズン50本塁打到達者である。
メジャーリーグ・ベースボールにおけるホームラン革命の始祖は、もちろんベーブ・ルースだが、日本プロ野球(職業野球と言おうか)でのそれは、天才・大下 弘の登場に始まる。
本塁打王が10本前後で争われていた時代に、いきなり2倍以上の27ホーマーの記録を打ち立てた彼の出現に、多くの伝説の猛者たちが長打力をみがきあった。
「打撃の神様」川上哲治。
「じゃじゃ馬」青田 昇。
「物干し竿」藤村富美男。
そのクライマックスが、小鶴 誠のシーズン51号ホーマーである。
当時のボールは今よりよく飛ぶもの(通称「ラビットボール」)だった。
狭い地方球場での公式戦も多かった。
などの理由で、のちの時代の野村や王の記録より一段下に見るむきもあるが、同じ昭和25年、チーム本塁打でも彼ひとりに及ばなかった球団もある事実はゆるぎもない。
「リーグの総本塁打数に対する比率」という見方をした時、上記の二人や、落合、バース、ローズ、カブレラらをもおさえてトップに出るのが、この小鶴の51本であるらしい。
この51という数字は、知っての通りというか、上に名前の出た人たちに追い抜かれていくのだが、もうひとつ、同じ年に達成した161打点という日本記録は今も燦然と輝く。
野村が160試合制のもとで追ったがついに届かず、その後は影を踏むものさえない。
「神代の記録」とも呼ばれる。
ただひとり、「ドカベン」山田太郎が昨年これを抜いたものの、これはマンガの話。
不滅の記録を不滅のままに、伝説のスラッガーは逝った。
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