「南海、ドラフト外、景浦安武、外野手、26才」
2002年8月20日BCオリジナル発売日。
あらためて、パンチョ伊東氏の冥福をお祈りいたします。
あぶさんが敬語をつかう球界関係者がまたひとり減ってしまった訳だね。
(王さん以外の11監督にタメグチきける現役選手、と思うとやっぱりすごすぎるよなぁ)
「実在架空を問わず、史上最強の高校球児は誰か?」
と問われたら、まず100人中90人が、明訓高校の山田太郎と答えると思う。
高校三年間の通算打率が7割2分5厘、本塁打75本。
連続試合本塁打はじめ数々の甲子園記録を樹立、唯一出来なかったのが1試合3本塁打だが、これはずっとのちにPLの清原が達成するまで他の誰も出来なかった記録である。
(そんな清原が西武で山田の先輩になるんだから、世の中判らないが)
また捕手としても明訓V4の屋台骨を支え続けた。
彼の在籍した三年間、練習試合まで含めて、明訓の敗戦はたった一度、というその事実の前には誰も何も言えまい。
と、こう持ち上げておいて何だが、実はもうひとり、史上最強球児候補が他ならぬ同じ水島マンガにいるのだった。
千葉・冠高校の岡本慶次郎。
「ドカベン・プロ野球編」の前に連載していた「おはようKジロー」の主人公だが、ずいぶん懐かしく感じるのは、「プロ野球編」も本当にながくやってるんだなぁ。
このKジローだが、一年夏の大会での活躍ぶりは、同じ時点での山田を大きくうわまわる。
山田のはじめての夏の成績が、打率5割、本塁打2本(予選と本大会とあわせて!)と聞くと、のちの彼を知る人は「まさか!」と驚くかもしれないが、これが知る人ぞ知る史実。
のちのパ・リーグ三冠王は、この時はまだ高校野球なら毎年ひとりかふたりあらわれる「並の」好打者であるに過ぎなかったのである。
対して岡本の初公式大会は、打率8割、本塁打は手元に正確な資料がないが、ともかく一年生山田を大きくうわまわる大爆発であった。
かててくわえて、山田の明訓高校が勝負師・徳川家康監督をいただき、主将・土井垣 将を中心にあるていどの土台をそなえていたのに対し、冠高校にはそもそも野球部がなく、岡本は野球部創設をめざして部員あつめから始めなくてはいけなかった。
野球経験者は自身をのぞいてわずか二人という、よせあつめチームを、事実上の指揮官としてまとめながらの快進撃であった。
一方の山田も、1年秋〜2年春の時期、廃部寸前においつめられた明訓野球部をとりまとめ、同じ苦難を背負わねばならなかったので、その点甲乙つけがたし、といったところかもしれないが。
一年生にして、ドカベン山田をもうわまわるポテンシャルを見せつけた岡本Kジローの、1年生の秋以降の活躍は記録に残っていない。
実に惜しい、と思う。
「おはようKジロー」が、「ドカベン・プロ野球編」連載開始のあおりで、打ち切りとは言わないまでも、かなり大急ぎで大団円を迎えたせいであるだけに、何とも因縁を感じてしまう。
彼の、高校3年間を通しての活躍を観てみたかったなぁ。
行きつけの古本屋で、「おはようKジロー」が飛び飛びにしかそろっていないのを立ち読みしながら、そんなことを思った。
あらためて、パンチョ伊東氏の冥福をお祈りいたします。
あぶさんが敬語をつかう球界関係者がまたひとり減ってしまった訳だね。
(王さん以外の11監督にタメグチきける現役選手、と思うとやっぱりすごすぎるよなぁ)
「実在架空を問わず、史上最強の高校球児は誰か?」
と問われたら、まず100人中90人が、明訓高校の山田太郎と答えると思う。
高校三年間の通算打率が7割2分5厘、本塁打75本。
連続試合本塁打はじめ数々の甲子園記録を樹立、唯一出来なかったのが1試合3本塁打だが、これはずっとのちにPLの清原が達成するまで他の誰も出来なかった記録である。
(そんな清原が西武で山田の先輩になるんだから、世の中判らないが)
また捕手としても明訓V4の屋台骨を支え続けた。
彼の在籍した三年間、練習試合まで含めて、明訓の敗戦はたった一度、というその事実の前には誰も何も言えまい。
と、こう持ち上げておいて何だが、実はもうひとり、史上最強球児候補が他ならぬ同じ水島マンガにいるのだった。
千葉・冠高校の岡本慶次郎。
「ドカベン・プロ野球編」の前に連載していた「おはようKジロー」の主人公だが、ずいぶん懐かしく感じるのは、「プロ野球編」も本当にながくやってるんだなぁ。
このKジローだが、一年夏の大会での活躍ぶりは、同じ時点での山田を大きくうわまわる。
山田のはじめての夏の成績が、打率5割、本塁打2本(予選と本大会とあわせて!)と聞くと、のちの彼を知る人は「まさか!」と驚くかもしれないが、これが知る人ぞ知る史実。
のちのパ・リーグ三冠王は、この時はまだ高校野球なら毎年ひとりかふたりあらわれる「並の」好打者であるに過ぎなかったのである。
対して岡本の初公式大会は、打率8割、本塁打は手元に正確な資料がないが、ともかく一年生山田を大きくうわまわる大爆発であった。
かててくわえて、山田の明訓高校が勝負師・徳川家康監督をいただき、主将・土井垣 将を中心にあるていどの土台をそなえていたのに対し、冠高校にはそもそも野球部がなく、岡本は野球部創設をめざして部員あつめから始めなくてはいけなかった。
野球経験者は自身をのぞいてわずか二人という、よせあつめチームを、事実上の指揮官としてまとめながらの快進撃であった。
一方の山田も、1年秋〜2年春の時期、廃部寸前においつめられた明訓野球部をとりまとめ、同じ苦難を背負わねばならなかったので、その点甲乙つけがたし、といったところかもしれないが。
一年生にして、ドカベン山田をもうわまわるポテンシャルを見せつけた岡本Kジローの、1年生の秋以降の活躍は記録に残っていない。
実に惜しい、と思う。
「おはようKジロー」が、「ドカベン・プロ野球編」連載開始のあおりで、打ち切りとは言わないまでも、かなり大急ぎで大団円を迎えたせいであるだけに、何とも因縁を感じてしまう。
彼の、高校3年間を通しての活躍を観てみたかったなぁ。
行きつけの古本屋で、「おはようKジロー」が飛び飛びにしかそろっていないのを立ち読みしながら、そんなことを思った。
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